荘内藩ハママシケ陣屋跡~松本十郎のエピソードが残る場所~
浜益には庄内藩が陣屋を構えた跡地が存在します
「荘内藩ハママシケ陣屋跡」は1988年(昭和63年)に国の指定を受けた史跡です。
1859年(安政6年)幕府は蝦夷地を奥州6藩に分け与え、ロシアからの侵略に備えて警備を命令しました。
1860年(万延元年)荘内藩は本陣屋をハママシケ(現在の石狩市浜益区)に設置、翌年には開墾・開拓のため多くの人が荘内から移住しました。
しかし、1868年(慶応4年)戊辰戦争が勃発。郷土を守るため蝦夷地から引き揚げることとなったのです。
そもそも陣屋とは
陣屋とは、その当時でいうと代官・奉行などの役所、衛兵の詰所のことです。
荘内藩がハママシケに作った陣屋は、警備のほか開墾・開拓にも力を注いでいたため、奉行所をはじめ長屋や湯屋、火薬庫など様々な建物があり、城下町のようだったと想像します。
荘内藩とは
荘内藩は現在の山形県鶴岡市を中心とした辺りを指します。1871年(明治4年)まで都道府県ではなく○○藩という呼び方をしていました。
なぜ山形からわざわざ蝦夷地へ、と思いますよね。
その頃、ロシアが蝦夷地を侵略しようと近づいていて、日本(幕府)はそれを阻止しなければなりませんでした。蝦夷地には最北の藩として現在の松前町に松前藩がありましたが、松前藩だけで蝦夷地を守るのは難しいとして、東北の6藩に蝦夷地を分け与え、警備を命じたのです。
本当は細かく分け与えられた部分もありますが、ものすごく簡単にした図
荘内藩は日本海に面する西海岸一帯「ハママシケ(浜益)」「ルルモッペ(留萌)」「トママエ(苫前)」「テシホ(天塩)」「テウレ(天売)」「ヤンゲシリ(焼尻)」を領地として与えられました。
荘内藩ハママシケ陣屋の誕生
1860年(万延元年)家老の松平舎人を総奉行として現地調査を行い意見書を提出。この調査を基に2代目総奉行・酒玄蕃了明が赴任し、警備・開拓の本陣となったのが、ここ浜益です。
陣屋には本陣屋と脇陣屋があります。本店と支店のようなものです。
荘内藩ははじめ、本陣屋をルルモッペ(留萌)にしようと考えていました。しかし、彼らは与えられた領地のはるか南にある、寿都町歌棄(うたすつ)まで見張らなければならなかったのです。それなら少しでも南下した方がと考えたのでしょう。また、冬も浜益の方が比較的暖かく、冬を越しやすいと判断し、本陣屋はハママシケに設置されました。
一行は永住計画で各種の職人・農民を集め、蝦夷地渡航用に2隻の弁財船を建造し、人々を運搬しました。
しかし、ハママシケ陣屋は海からも川からも離れた場所にあったため、近くまで小船が入れるよう水路を設けました。その資金は金千両を要したことから「千両堀」と称され、その跡は現在もひっそりと残っています。
戸田総十郎(のちの松本十郎)のエピソードが残っています
1863年(文久3年)松本十郎は父とともに苫前へ渡り、1864年(元治元年)父が郡奉行を務めることになったことがきっかけで浜益へ移り住みました。松本十郎はアイヌの人々とも親しんだそうです。
松本十郎はある日、藩の後輩であった石川国松を誘い釣りに出かけました。浜益川で魚を釣り、薪の集積場のそばで魚を焼いて食べたところ火の始末が悪く、大切な薪材を焼失してしまいました。薪はその頃、ニシン粕を作るための貴重品だったのです。
この責任を負わされ、松本十郎は苫前の陣屋へ、石川国松は樺太に飛ばされてしまいました。
その後、戊辰戦争が勃発して事態は一変。1868年(慶応4年)ハママシケ陣屋内は建物を全て取り壊し、荘内への引き揚げが始まりました。
7年におよぶ年月と莫大な費用をかけた荘内藩は蝦夷地拝領地の警備・開拓を終えたのです。
1年後、石川国松がハママシケへ戻ったときには、集落の姿も形もありませんでした。きっと狐につままれたような気分だったでしょうね。その後、石川国松は浜益に残り漁場を経営していたそうです。
子孫の方々は今でも浜益に暮らしていますから、歴史の面白さを感じます。
ちなみに石川国松は根室へ行った際に松本十郎とばったり会ったそうで、そのとき彼は根室庁に判官として赴任していたとのこと。
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現在は地元に研究会が発足し、ハママシケ陣屋の歴史を深掘りしてわかった情報を広く伝えようと、現地のガイドを始めています。
団体から個人まで、受け入れることができます。興味のある方はお気軽に問い合わせください。
【所在地】 石狩市浜益区川下(住宅街の中に看板があります)
【ガイドの申込先】 石狩市浜益支所浜益社会教育課
電話 0133−79−2114